子どもは「その時のその子に必要なこと」を選んでいくから

先日、オランダの教育現場の視察からのお話しを聞き、
母親として、子どもに関わる大人として、
いろいろ思いを巡らせたりしている。
(→前記事 「やり方」の前に「在り方」だよ、と気づかせてくれた人に再び会いに行く)

多重知性論を取り入れているオランダのある小学校では、
8つの知性分野に基づいた課題カードが用意されていて
子どもたちがそれを選んで、取り組んでいる。

と聞いて、
「選ぶ」というところに気持ちが向いた。
この課題のバリエーションが、年齢を考慮したりして
たくさんあるんだろうなあとすごく気になった。
個別教育用のこの課題作りがキモなのではないか、と。

うちの姉妹の過去やその周り、小学校の放課後活動で見てきた子たちなど
幼稚園の年長~小学低学年くらいまでを思い浮かべてみると

遊びでも家庭学習でも、子どもに何でもしていいよと言ったら、
まずは楽しそうに何かを考える。そして始める。
(この時点で、何していいかわからなーい、とか言うのも多いけど)

けれど、そのうちやっていることに飽きてしまう。

そして、次はこれにしようと考え出して、また活動するのだけれど
「その場」に何らかの材料というか刺激というか
そういうものが見つけられないと、動きがしぼんでいく。

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その点で、森や林などからちょっとした繁みまで、
自然に中にはとってもたくさんの「題材」があるなぁと改めて思う。
五感(より多く)で刺激を受ける、という感じ。

だから、外へ出る、外で学ぶというのは子どもにとってとても必要なのだなあ。
森を活動の場にしている教育があるの、もっともだ。

で、「活動を選んで決める」ということだけれど、

部屋の中での活動の場合、題材がいろいろ並んでいると
子どもは「その時のその子に必要なこと」を選んでいく。
「興味」とはそういうこと。
「お題」があることで、頭がフル活動しはじめる。

先々、課題を自分で生み出すための土台づくり、としての経験を積むため、
幼児~小学生低学年時代には「色々の中から自分が選んで決める」というのが
適しているかなと思う。

じゃあ、どんなものを選択肢として用意すればいいの?と思って
知育玩具とか指先や身体を使う物や本とか、家庭でも選ぶ目を持つのはある程度大切。
小さければ小さいほど、家庭の中の生活のモノが題材にもなる。

でも物だけそろえるのも、なんか違うように思う。

何だろうな。

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小3次女。今日、ふと見ると姉のお古の辞書、たぶんマンガ?に熱中。途中で机からベッドにゴロン。「興味の旬」もどんどん変わってくる、おもしろいなあ!

選ぶ時の子どもって、「ああ、そういえば、こういうことがやりたいんだ~」と
(言わないけど)
自分の興味、好きなことに気づいていく、そんなことが起こっているよう。

見守る大人として、母親として
「へ~、今、そうなんやぁ」というセリフとともに(笑)子どもを見ていることが
私には大切なように思う。

そこから、どんなところが面白いの?とか、なんでうまくできたの?とか
どこか難しいなと思うところはあった?とか
いろんな問いかけ、会話が起こってくるところが
大人の「関わり」の意味、意義のような気がする。