”家事”をいやなものにしてほしくない

先日、”「だれかのじょうず」ではなくあなたのしあわせな家事へ”というタイトルでお話する機会がありました。どうせやるなら、しあわせを感じる方がいいです。きっとあります。

わたしが「家事をいやなものにしてほしくない」と今思うのには、いくつか理由があるのですが、その1つが私の母のことです。

(9月になり、見える空が変わりました)

私の母は、今から9年前、病気で他界しました。とても器用な人で、陶芸やちぎり絵やデコパージュなどに興味を持って、よくやっていました。料理もじょうずで、おいしい記憶をたくさんもらいました。

私が高校生のころ、何かで口げんかになったことがありました。「私が高校生の時には、家族のご飯ごしらえをさせられてたのに!」と母。「だから何?わたしはわたし!」とか何とか私は答えたように思います。

そこから先の日々で、母のストーリーを何度となく聞きました。
7人家族の母が高校生のころ、働く父母と姉、大学生の兄、小中学生の弟妹の間の真ん中にいる自分が家事をまかなう役割だったこと。そのこともあって、進学はあきらめざるを得なかったこと。 裕福な親友たちが大学進学する中、ずっと何で自分ばかり…とくやしかったこと。だからわたしや弟には、やりたいと思うことはやらせてあげたい、応援したいと思っていること。

押し付けられた家事だったから「料理することなんて好きでない。」と聞いたときは驚きました。子育て中は子どもが喜ぶからやれていたと。(子育て中はこれはまあ、そうだろうと思いますが)

当時、もう大人になった私は、それはつらいなー、しかたないのかなあ、とか思っていたこともありましたが、今は、もし母が彼女のこころに響くような「ありがとう」やねぎらいをたくさん得ていたら…もう少し救われたのではないかと思うのです。

「何で自分ばかり」の刷り込みが強すぎて、ほんとは楽しめていることや五感で喜びを感じている部分も見えなくなってしまう。何もかも「家事はいやなもの」になってしまう。そんなところから1人でも多くの人が解放されてほしい、そう思うのです。

そんな母の話を、昨日お墓参りの帰りの車で思い出し、父に話したら、「それは知らんかった」と驚いていました。あたりまえと思わんと、ありがとうやねんなあ、としみじみの父娘会話でした。